西熊野街道について② 妙圓という里を訪ねて…
シリーズで書こうと思っています、西熊野街道。
西熊野街道とは?については、バックナンバーをご覧ください。
ざっくりとですが、説明をしております。
さて、シリーズ二回目にして、
今回歩いたのは「旧西熊野街道」。
早速”旧”かよ!とツッコみが入りそうですが、
以前から気になっていた 妙圓(みょうえん)
という里を訪れるというのが一番の目的でした。
妙圓は、小森の小字。
地元の方によると、
昔はとても豊かな里だったそうで、
「朱色に塗られた門がある屋敷もあった…という話をじぃさんから聞いた。」と話してくれた方もいらっしゃいました。
明治初期までは、
この妙圓を通る街道が西熊野街道だったため、
賑やかだったのだろうと想像ができます。
しかし、
明治道と呼ばれる道が新たに作られてからは、
集落を通る人も減り、
昭和初期には住む人はいなくなったそうです。
そして私が強く興味を抱いたのは、
そこに尼寺があったというお話。
南北朝時代にまで遡りますが…
大塔宮(護長親王)が十津川へ来られた際に、
この尼寺に立ち寄り、
橡粥を食べたという記録も残っているとのこと。
こんな山奥に尼さん。
そして、大塔宮も歩いた歴史深い道。
西熊野街道の歴史を知るにも、
またこの土地について深く学ぶにも、
これは行きたい!!!ということで...
那知合の大先輩に案内をお願いし、
今回の古道歩きは実現しました。
さらにスペシャルだったのは、
和歌山や奈良の山を中心に歩かれ、執筆もされておられるKさんとそのご友人にもご参加頂けたこと。
本当にたくさんの、そして貴重な情報を教えていただきました。
ありがとうございました。
話は実際の古道歩きに戻しますが...
妙圓までの道はさほど荒れておらず、
集落にあるお墓もきれいにされていました。
集落の石垣もまだまだ健在で、
崩れている箇所もほぼありませんでした。
今はスギ林になっていますが、
当時は開けた里だったのだろうなぁ...
と思いをはせながら集落跡を過ぎ、
谷を下りながら那知合方面へ向かい始めると、
目に入ってきたのは 棚田跡。
小さいな沢を沿うように、
美しい石垣の棚田の数々。
貴重な水から、
少しでも多くのお米を作ろうとされていたのだと思いますが、
小さな畳二畳分ぐらいの田んぼもありました。
石垣にしろ、
棚田にしろ、
本当に昔の人々の力強さにはパワーをもらいます。
そして、
今なお先祖代々のお墓を守っておられる地元の方々にも頭が下がる思いです。
尼さんが沐浴をしていたとされる淵を過ぎ、
谷を下り切った後に渡り、
向かいの山へ入ると那知合の旧集落へ。
お寺の跡地にも立ち寄りました。
那知合旧集落付近は、
シダが繁茂していたり、
スギの倒木があったりと、
少し通りにくい道でしたが、
何とか帰路に。
今回、
ここには書ききれないほどのお話を、
皆さんから聞かせていただきました。
少しずつ記事にしていきたいと思います。