ばぁちゃんから聞いた昔の話。其の二
ご無沙汰し過ぎのブログです。
書き溜めた…というより、
頭に残し溜めたものを、
年内に少しずつ放出していけるよう自分を鼓舞して頑張りたいと思います。
よろしくお願いします。(←何の、よろしくじゃ。笑)
さて、
「国の特別名勝・天然記念物 瀞(どろ)峡(瀞八丁)」を航行する瀞峡ウォータージェット船が休止するというニュースが先日ありました。
このウォータージェット船、
その前身はプロペラ船になります。
このプロペラ船の話を、
つい先日私の大叔母から聞いたところだったので、
少し書き留めておこうと思います。
十津川にダム建設が始まる前、
地元の人々の交通を支えたのは、
山道だけでなく、
村を縦断する【十津川】でした。
昭和初期に登場したプロペラ船。
今でも十津川人にとっては生活圏である”新宮市”から、
ブォォォ~ンと音を立てて、
平谷を過ぎ、
込之上を過ぎ、
折立まで上って行った、
新宮からやってきたエンジン付きの船。
大叔母が住んでいた桑畑は、
十津川(熊野川)沿いにあるため、
家からそのプロペラ船が見えたそうです。
十津川の清流が流れる光景を見たい!!とずっと思っていますが、
そんな清流を遡っていくプロペラ船の様子も、
思い浮かべるだけでロマンがあります。
上りと下りで、
そのエンジン音が違ったため、
その音を聞いて、
「あ、上っていったわ」
「あ、下りやわ」と分かったそう。
面白い~!
東紀州百科事典( 東紀州ほっとネット くまどこ:東紀州百科事典)には、
昭和初期の新宮から折立までの所要時間は、5時間30分。
下り(折立から新宮)は、4時間10分と記載されています。
今は車でゆっくり走っても、
折立から新宮までは1時間で行けると思うので、
4倍、5倍以上の時間をかけて行き来していたということになります。
運賃も、当時においては安いものではなかっただろう上りは4円。
下りは2円20銭。
(半額なのは、エンジンをほとんど使わずに水の流れで行けたからなのかなぁ~)
その後、
道路整備が進み、
ダムが建設され、
ジェット船の前身であるプロペラ船の時代は終わりを迎えることになります。
以前、
瀞峡ウォータージェット船が航行していた一部を、
カヌーで川下りしました。
その時に見た「川からの里の景色」の美しさは忘れません。
プロペラ船から、
十津川の山々に点在していた里はどのように見えていたのでしょうか…。
今回、
ジェット船が休業となった背景には、
航路整備に大変な労力がかかっていたことが挙げられています。
度重なる土砂災害、
整備しても整備しても埋まっていく川。
人々の生活の変化により、
交通の手段が変わっていく…というのは、
でも、
人々の生活の変化による負荷が原因で、
川が機能を失い、
土砂が山積し、
それによってある一つの文化が失われていくことは、
とても悲しいことだと思います。
川の再生を考える、
一つのきっかけになればいいなと感じた12月3日。
ばぁちゃんから聞いた昔の暮らし。其の一
山歩きと直接は関係ありませんが、
私の両親や親せき、
そして実家の近所のばぁちゃんたちから聞いた話を忘れないように記録していきたいと思います。
※あまり参考になる写真が手元になく…また手に入れば、追加していきます☆
1回目は、昔の食のことについて。
いやっこのテーマは1回では終わらないかもです。
十津川は、
険しい山々に囲まれた地形ということもあり、
お米はとても貴重だったそう。
一般的に、田んぼというと、
広い土地があって…というイメージがありますが、
十津川では、
その周辺の〝水の有無〟が重要視され、
谷に沿うように、小さな棚田がたくさん作られていました。
(場所によっては、大きな棚田…表現がおかしいかもしれませんが…もあります。)
多少家から離れていても、
水があるところには、田んぼを築き、
お米を作ったと。
実際に私も、
畳二畳分もないぐらいの大きさの田んぼを山の中に見たことがあります。
昔の人々のエネルギーの高さを改めて感じました。
国道からでも、
少し注意して覗いて見ると、
谷に沿うように、
丁寧な石積みが築かれているところが多くあります。
杉林になってしまっていますが、元々は田んぼだったんだろうと想像します。
私に話をしてくれたおばあちゃんは、
当時ほぼ1人で、田んぼの世話をしていたそうです。
家のすぐそばに田んぼはなかったので、
いくつか散らばってある田んぼに、
もちろん歩いて作業に出かける。
耕運機をバラして背負い、(←ホンマに男前。)
田んぼに着いてその耕運機を組み立て、
そして作業をしたと話してくれました。
すんごいパワー。。。
ちなみに、
金太郎みたいなばぁちゃんではなく、
優しくて可愛らしいおばあちゃんです。
この話の中で、
私が一番印象的だったのは、
それだけ家から離れたところに田畑を作っても、
当時は動物にやられるということは無かったそうです。
今でこそ対策をしないと、
動物(シカ、シシ、サル、ウサギなどなど…)に作物を食べられてしまいますが、
その当時はそんな対策など要らなかったと。
私が話を聞いているのは、
60代から70代のおばあちゃんたち。
働き盛りの頃の話をしてくれていると思うので、
今から約40年前ぐらいかなぁと。
1番おったまげたばあちゃんのコメント…
「シカやシシっちゅうのは、
ずっと山奥におるような動物で、
そんなに見たことなんかなかったもの。」
なんとぉ〜!!!
おばあちゃん達が住んでたとこも、
たいがい山奥やぁーんっ!
とツッコミたくなりながらも、
見たことがなかったという話には驚きました。
今シカやイノシシ、サルは、
庭のシイタケを取っていってしまうほど、
人との距離が近い動物です。
十津川に住んでいて、
これらの動物を見たことがないっていうのは、
今はほぼないことだと思います。
また当時、
シカやシシが食卓に並ぶということもあまりなかったそうです。
(これは地域にもよるかも知れませんが…。)
牛は各家々に、
田畑を耕すために飼われていたそうですが、
それらを食べるということも滅多になかったということ。
では、肉は全く食べなかったのか?
当時は、
卵を産まなくなったニワトリをつぶして食べたり、
カジバト?ヤマバト?(←人によって呼び方が異なる。何故だ。笑)をクグツ(方言かも。)使って獲ったりしていたそう。
私の父も、
通学路が山道だったのですが、
登校途中にクグツをかけて、
下校時にその鳥を獲って帰る…というのが日課だったと話していました。
もちろん当時、
シカやシシは、
おばあちゃんが言う〝山奥〟に行けばたくさんいたはずですが、
それを獲りにいくということはなく。。。
肉を食べるということ自体が、
今と比べて少なかったんだなと思います。
必要がなかったのかな…。
その代わりに食べていたものがあるとか。
ここはまた宿題に。
この数十年で、
どれだけの変化が、
山や人、そして食にあったのかが分かる話でした。
おばあちゃんが話の終わりに言った、
「人間が皆んな変えてしもぉたんや。」
っていう一言が、ずーんと心に残りました。
昔の生活に戻ることは難しいかもしれないけれど、
人と自然が共生していた頃の在り方や知恵を、
いま一度見直していきたいと改めて思いました。
人間には、
よきも悪しきも、
変える力があるのなら、
今のこの状況も良き方向に変えていきたい…!
西熊野街道③+α ~小森から中原…その先まで歩きたい…~
3月29日日曜日。
どうしても歩きたい...小森から中原谷を越えて、池穴そして山崎まで。
前回年末の山歩きで、
昔(中原谷の吊り橋ができる以前の?)橋が渡っていただろう箇所を確認し、
その先に続いていく石積みの道(そう!西熊野街道)を確認できました。
時間切れとなり、引き返したものの、
その先に見えた街道の続きを歩く!べく、
今回も小森からスタート。
約2か月前に通った道も、
また少し荒れてしまっているなぁと感じつつ...
トコトコと足を進めます。
途中、
山小屋跡あたりから、谷の音が聞えてきました。
ゴォゴォゴォ・・・
「ひゃぁ~水太そうですね~。」
などと言いながら、
トコトコと中原谷へ。
予想はしていたものの、
音から想像できたものの、
なかなかの水量。
前回は、
石をぴょんぴょんしながら渡れた谷も、
そんな優しい雰囲気すらなく…。
今回は、
次回の計画を立てつつ引き返すことに。
対岸に見えた街道の石積みが崩れてきていることも確認し、
早く向こうに辿りつきたい気持ちが高まり、
引き返すことになり残念ではありましたが、
モチベーションはむしろアップしました。
倒木、
土砂崩れ、
丸太橋の崩落...
家もそうですが、
道もそう。
人が入らなくなると、
あっという間に荒れてしまいます。
少し時間に余裕があったので、
小森集落の上にある勝手神社に寄らせてもらいました。
地域の方々に、美しく守られた神社でした。
玉置神社遥拝所が置かれている様子から、
西熊野街道や玉置神社の存在の大きさを改めて認識。
*小森集落周辺にあるとされる、七人塚の場所を探しています。
(大塔宮の家来のお墓とされる塚です。)
ご存じの方おられましたら、教えてください。
西熊野街道について③ ~小森から中原…その先を目指して~
新年あけましておめでとうございます。
本年は、”山を歩いたら三日以内にブログに書く”を目標にしております。
また、年内に十津川の山を少なくとも8ルートを、
地元の方々はもちろん、
縁を頂いた方々にご参加いただきながら歩いていきたいと願っております。
どうぞよろしくお願いいたします。
西熊野街道シリーズ。
今回の目的は、
①中原集落
②西熊野街道の確認
でした。
西熊野街道を調べ始めて間もなくの頃から、
この 中原 という地名を耳にしていました。
「とても なるい(おそらく十津川弁?で、ゆるやかな)土地。」
「昔は多くの家があった。」
など、中原集落の存在を知る人が多く、
集落へ繋がる吊り橋の話など、
興味深い話をたくさん...。
しかし同時に、
そこへ通じる道が ”崩落している” ”通行は難しいと思う” などの情報もあり、
どこまで行けるか。。。という精神で山歩きをスタート。
今回も、
昨年の妙圓までの山歩きにもご参加頂いたKさん、そしてご友人の3名の方々。
地元在住のUさん、Mさん、Kさんにも加わっていただき、
総勢8名で大冒険へ出発しました。
役場、郵便局、警察署などの跡を過ぎ、
順調に歩き出したかと思えば、
大きな木の倒木や崩落個所が。。。
対岸に湯之原の集落を見ながら、
”モモノキのタワ” を過ぎ、山小屋跡に到着。
まずは ①中原集落を目指そう ということで、
山小屋跡から少し上へ登ります。
(西熊野街道は、ここから左下へ降りる道になります。つまり、中原集落の本在は通らない道です。)
途中不明瞭な箇所がありながらも、
なんとか中原集落へ…!
目の前に広がったのは…
想像以上に広い集落跡。
今なお残る美しい石垣。
集落の端には、
長い間集落を見守っていただろうお地蔵さまもありました。
広く大きな集落を下りていくと、
まだ歩行可能な橋があり、
渡ってすぐのところには 噂の吊り橋が!
谷は見えませんでしたが、
そうとう高いところにある吊り橋だろうと、
谷を流れる水音から想像できました。
しかしながら、
吊り橋はかなり朽ちており、
歩行は不可能な状態でした…。
来た道を引き返し、
山小屋跡から次は西熊野街道へ。
途中まではしっかりと残っていたのですが、
中原谷(地元の方には広尾谷という名前の方が親しい方も多くおられましたが)へ出たものの、
ここから対岸へ渡るルートが分からず、
谷を探検することに…。
しばらくすると、
対岸に見えたのは 美しく丁寧に積まれた石垣!
そう!西熊野街道です!
よくよく観察すると、
谷をまたぐように橋を渡していたような跡も見られました。
先に訪ねた集落にかかる吊り橋ができて以来、
このルートを歩く人も少なくなり、
橋も修復されるぬまま跡だけが残されているのでしょうか。
それにしても、
対岸に続く街道の石垣の美しさには圧倒されました。
大きな石や岩がゴロゴロしている谷ですが、
ここを渡り、
人々が往来していたんだなぁと思うと、
本当に心動かされます。
ということで、
②西熊野街道の確認
という目的については、
今回は谷を渡渉するところまで。
一緒に歩いてくださった方々と、
「まだまだ残されている貴重な古道を歩き、
これからの村の活性化に繋げたいですね」
と熱い会話を交わしながら帰路につきました。
今回歩いたルートの荒れた状態から、
この先もなかなか厳しいだろうと予想してしまいますが、
ひとまず山崎までは...歩き通してみたい!!と思っております。
参詣道の一つ、玉置街道を歩く。
この街道の存在を知ったのは、
栂嶺レイさんの著書『誰も知らない熊野の遺産』を読んでから。
(本の詳細については下記リンクにて)
玉置山(玉置神社)への山道/参道といえば、
・折立集落から登るルート
・大峯奥駆道
の2つが私にとっては馴染みがあり、
〝木馬道〟や〝一の鳥居〟の存在が気にはなっていましたが、
詳しくは知らずにおりました。
2019年5月に、
「旧表参道の一の鳥居 再建」という記事を読んだのがきっかけで、
調べていくうちにヒットしたのが、
栂嶺さんの著書。
今回は、
十津川の山に詳しい大先輩Nさんにご協力いただき、
村内外から集まった13名で玉置街道を経て玉置神社を目指しました。
十津川村 竹筒の葛山 というところからスタート。
登り口は分かりにくかったのですが、
当日地元の方が看板を設置してくださりました。
歩きやすい道、歩きにくい道を交互に歩くように進み、
草をかき分けて杉林に出ると…
そこに立っていたのは一の鳥居。
その圧倒的な存在感…!
かつてこの道を行き交っていた人々にとって、
この鳥居はどんな存在だったんだろう…。
地元の方によると、
明治の頃までは、この鳥居の周辺には宿もあったそうです。
その少し先に進むと辻があり、
目印のお地蔵さまや立派な巨木が立っていました。
ちょうど半分を歩いた辺りから、
「えぇ〜大丈夫?」と言いたくなるぐらいに…
降りる降りる降りる。
一旦道路に出て、
谷にかかった橋を渡ると、
さきほどの 降り を一瞬で取り返してねと言わんばかりの急坂。
もちろん上りです。。。!
このエリアは崩れている箇所も多く、
足が疲れてきているところに、
なかなかのボディブローでした。苦笑
ここさえ抜けてしまえば、
あとは車道と本宮辻からの最後の登りです。
車道を通らないルートもあるということでしたが、
現在は作業道からの土で歩ける状態ではないということ…。
最後に立ち寄ったのは、
本宮辻に入ってすぐにある、
犬吠檜。
大津波がそこまで迫り、
一匹の白い犬が、
その巨木であった檜に登り吠え、
人々を救ったという言い伝えがあるそうです。
こんな所まで津波!?と思いますが、
玉置山では枕状溶岩が見られることや、
山頂からは熊野灘が見えることから、
海にまつわる言い伝えがあっても不思議ではないのかなぁと思います。
そしてやっと玉置神社へ到着。
参道から正面に見えた本殿の鳥居。
いつもの玉置神社参拝とは違う思いでした。
この玉置街道は、
作業道と交錯している箇所が多く、
人が歩かなくなったことも併せて、
歩きにくい/分かりにくい箇所が多かったです。
しかし、
時折見える石積みや石垣などは美しく、
これまでの歴史と文化を感じることができる道でした。
玉置神社への参道…
まだまだ歩き見たいものがありそうです。
西熊野街道について② 妙圓という里を訪ねて…
シリーズで書こうと思っています、西熊野街道。
西熊野街道とは?については、バックナンバーをご覧ください。
ざっくりとですが、説明をしております。
さて、シリーズ二回目にして、
今回歩いたのは「旧西熊野街道」。
早速”旧”かよ!とツッコみが入りそうですが、
以前から気になっていた 妙圓(みょうえん)
という里を訪れるというのが一番の目的でした。
妙圓は、小森の小字。
地元の方によると、
昔はとても豊かな里だったそうで、
「朱色に塗られた門がある屋敷もあった…という話をじぃさんから聞いた。」と話してくれた方もいらっしゃいました。
明治初期までは、
この妙圓を通る街道が西熊野街道だったため、
賑やかだったのだろうと想像ができます。
しかし、
明治道と呼ばれる道が新たに作られてからは、
集落を通る人も減り、
昭和初期には住む人はいなくなったそうです。
そして私が強く興味を抱いたのは、
そこに尼寺があったというお話。
南北朝時代にまで遡りますが…
大塔宮(護長親王)が十津川へ来られた際に、
この尼寺に立ち寄り、
橡粥を食べたという記録も残っているとのこと。
こんな山奥に尼さん。
そして、大塔宮も歩いた歴史深い道。
西熊野街道の歴史を知るにも、
またこの土地について深く学ぶにも、
これは行きたい!!!ということで...
那知合の大先輩に案内をお願いし、
今回の古道歩きは実現しました。
さらにスペシャルだったのは、
和歌山や奈良の山を中心に歩かれ、執筆もされておられるKさんとそのご友人にもご参加頂けたこと。
本当にたくさんの、そして貴重な情報を教えていただきました。
ありがとうございました。
話は実際の古道歩きに戻しますが...
妙圓までの道はさほど荒れておらず、
集落にあるお墓もきれいにされていました。
集落の石垣もまだまだ健在で、
崩れている箇所もほぼありませんでした。
今はスギ林になっていますが、
当時は開けた里だったのだろうなぁ...
と思いをはせながら集落跡を過ぎ、
谷を下りながら那知合方面へ向かい始めると、
目に入ってきたのは 棚田跡。
小さいな沢を沿うように、
美しい石垣の棚田の数々。
貴重な水から、
少しでも多くのお米を作ろうとされていたのだと思いますが、
小さな畳二畳分ぐらいの田んぼもありました。
石垣にしろ、
棚田にしろ、
本当に昔の人々の力強さにはパワーをもらいます。
そして、
今なお先祖代々のお墓を守っておられる地元の方々にも頭が下がる思いです。
尼さんが沐浴をしていたとされる淵を過ぎ、
谷を下り切った後に渡り、
向かいの山へ入ると那知合の旧集落へ。
お寺の跡地にも立ち寄りました。
那知合旧集落付近は、
シダが繁茂していたり、
スギの倒木があったりと、
少し通りにくい道でしたが、
何とか帰路に。
今回、
ここには書ききれないほどのお話を、
皆さんから聞かせていただきました。
少しずつ記事にしていきたいと思います。
西熊野街道について①
西熊野街道とは…
五條を通る紀州街道から分かれて、
168号線に沿うように南へ走る街道です。
途中(果無峠の手前、石楠辺)というところで、
高野街道、
つまりは熊野古道小辺路と合流し、熊野本宮へと繋がっています。
参詣道として整備、利用されてきた小辺路。
一方で、西熊野街道は、
より”人々の生活道”としての役割を担いながら、
集落と集落を結び、
幾年もの間、人・モノ・情報を運んできました。
今でも街道沿いには、
谷間を沿うようにして作られた棚田跡や、
人々の信仰、心の拠り所であっただろうお堂跡などが見られます。
「何でこんな山奥に住んでるんだろう???」
と、一見疑問を持ってしまう集落も、
実は西熊野街道をはじめとする山道が通っており、
アスファルトの道路が建設されるまでは、
交通など便のいい集落だったのだろうと予測できます。
かつては役場や警察署などの行政機関が、
今現在の小原ではなく、
この西熊野街道が通る小森という集落にあったということも、
その一例です。
また、西熊野街道が十津川の人々にとって、
重要な道として機能していたことが分かります。
地元の人は、
”西熊野街道”という呼び名にはあまり馴染みはなく、
その土地土地で呼び名があったようですが、
おじいちゃんおばあちゃんからは、
「この道を通って役場へ行った。」
「この道は私たちの通学路だった。」
「隣の集落の祭りを見るために、この道を通って遊びに行った」
などの話をよく聞きました。
今現在、
十津川を縦断する国道168号線。
その国道と同じ役割を担い、
人々の生活を支えてきた西熊野街道。
そして今なお残る、
街道沿いの人々の力強い生活の跡。
ほんの一部にしか過ぎませんが、
シリーズにわたって、
実際に歩いた西熊野街道のルートやそこに関する情報などについて記録していきたいと思います。